--ある秋の日-- 私は小さい頃からプロ野球に憧れて、野球に打ち込んできました。 しかし、長年続けてきたその野球の試合中に相手の選手とぶつかり、 首の骨を折って死にかけました。 私は、今でもそのぶつかった瞬間のことを覚えています。 いや、忘れる事ができません。 それは憧れの甲子園に出場をしてから1年後の秋のことでした。 その日は、残暑がきびしくとても暑かったのを覚えています。 2アウト、ランナー無しからファーボールを選んで出塁しました。 次のバッターのカウントが2−1になった時、 ベンチを見ると私にはヒットエンドランのサインのように見えたのです。 だから、ピッチャーがホームに投げると同時に2塁に向かってスタートを切りました。 走りながら打った打球の方向を確認するためにバッターボックスを見ると、 バッターが見送ったのが見えたのです。 「あれ、おかしいな? 何故、打てへんねんやろ。 俺のサインミスかな、違う。先輩のサインミスやろ……」と色々考えている間に すべるタイミングが遅れてしまいました。 私がヘッドスライディングをしたときには「危ない」と思ったのですが、 その時にはもうどうする事もできませんでした。 次の瞬間、「ドスッ」とぶつかったことだけわかりましたので、 「相手の選手もボールを落としてるかもしれない、 とりあえず手を伸ばしてベースタッチだけはしよう」と目を開けようと思った瞬間、 目を開けるヒマもなく、今まで生まれて味わったこともないような激痛が首に走りました。 その時から息苦しく……。 手も足も動かず、自分の身の上に何が起こったのかわからない。 これからどうなるのかという不安。この時ほど心細いときはありませんでした。 とにかく、救急車に乗り、近くの病院でレントゲン写真をとろうということになりました。 レントゲンが出来上がると、「首の骨が折れています。この病院では治療できませんので、 設備の整った大きな病院に移ってもらいます」と言われました。 私は、小さい頃から人間が首の骨を折ると死んでしまうとそう思ってきました。 ですが、ぶつかったときの前後を今でもはっきりと覚えていますし、 意識がはっきりとあっただけに 「これは大したことではない。先生は首の骨が折れたと言うけれども 腕の骨や足の骨が折れたときのように元通りに骨さえくっつけば、 また野球ができる」と思っていました。 --つらい告知-- しかし、その後、余りにも回復の遅さに自分でも疑問を抱くようになりました。 そして、自分の中で色々と考えて、自分から主治医の先生に 「覚悟ができていますので、本当のことを教えて下さい」と言いました。 この時に「今の医学では治すことができません。一生寝たきりの生活になります」と、 私が考えていた以上に酷い答えが返ってきて、 もうどうしていいのかわからなくなってしまいました。 両手、両足の動かない状態で、これからどうしたら生きていけるのか、 何をして生きていけばいいのかを考えても考えてもわからず……。 結局、たどり着いたのは、「俺が生きていると周りの者が介護に疲れ、 自由も奪われて、迷惑をかけるだけや。 しかも、自分では何もできず、生きることは苦しむことや」と思ったので、 どうやったら楽に死ねるかを考えました。 が、しかし、死ぬことさえも自分でできず、ただ、泣くことしかできませんでした。 --障害のある生活-- 私は障害者になって13年です。 今まで野球中心の生活をし、物事を考えてきた私には、この障害者の世界は本当に異様でした。 私の身体は、肩から下がマヒしているだけであって、後は何も変わりません。 だから、物を見たり、音楽を聴いたり、人と話をしたり、 臭いをかぐことは普通の人と何の変わりもありません。 だけど、車椅子に乗っているだけで、特別な物を見るような冷たい視線で見られ、 “特別”に思われている方が多いのです。 しかし、私は身体が動かないだけであって、ケガをする前の私とは何の変わりもないのですが、 周りはそうは思ってくれません。 ケガをしてから両手両足が使えませんので、どうしても人の手を借りなければいけないのですが、 今の福祉の現状というのは、その介護をするのは 「家族がして当たり前」というような状況ができあがっています。 私が家族と一緒に生活をしていた頃は、「迷惑をかけて申し訳ない」と負い目を感じて生活をしていましたので、 お風呂に入りたくても、外出したくても、それは言えませんでした。 何故なら、誰が悪いという訳ではありませんが、ケガをしたのは私だからです。 だけど、私も好きこのんで障害者になった訳ではありません。 私にも生きる権利があります。負い目を感じながら生きる生活が良いとは絶対に思えません。 しかし、今の福祉の制度ではどうすることもできず、 みんな肩身の狭い思いをしながら生活をしています。 --1人暮らしに挑戦する-- 現在、私は「障害者の新しい選択肢」になればと思って、 社会資源(ホームヘルパー、訪問看護、ガイドヘルパー)だけを利用して 一人暮らしに挑戦しています。 ですが、私は特別なことをしてるとは思っていません。 何故かというと、32 歳の男が一人暮らしをすることはごく当たり前のことだからです。 ただ、そこに身体に障害があるという事だけで「できない」というのが間違っているからです。 私は、高校、大学と寮生活をしていたこともあり、 「自分のことは自分でする」というのが基本のように叩き込まれていたのです。 高校時代、なれない洗濯、掃除、皿洗い、あらゆる雑用は一年生の仕事でした。 そういう中で生活していて、両親の有り難さを実感し、特に母の偉大さを痛感したのです。 だから、これから親孝行をして……。という、矢先の事故でしたので、 一緒に住めば迷惑を掛けてしまう事がわかっていました。 もう一つは、現実に、今まで介護をしてくれていた母が 父の看病にあたらなくてはいけなかったので、 私の世話をしてくれる人がいないというのもありました。 父が、高血圧からの脳梗塞で倒れ、左半身がマヒし、 私と同じ重度身体障害者になってしまい、父にも介護が必要になってしまったのです。 この時、「何故、俺の所ばかりがこんな目にあわなあかんねん」と悔しい思いをしました。 だけど、そのままではあまり悔しすぎるので、「これをいい機会にしよう。 これは俺に自立する機会を与えてくれたんだ」と思うようにしました。 --福祉の矛盾-- 一人暮らしを始めて2年が過ぎました。 やっと、なれてきたところですが、ここにきて大きな問題が出てきました。 それは、今受けている福祉のサービスに「自己負担(時給、400円)」がかかることです。 これは、私が昨年、講演や執筆活動で収入があったからですが、 これが、計算してみると1ヶ月、私がもらっている年金よりも多いのです。 仕事をしないと生活はできません。 だけど、収入があると生活ができないほどの税金や自己負担がかかってくる。 これで本当にいいのか? この身体の状態で、自分でご飯を食べろと言われても食べることはできません。 服を一人で着替えろと言われても無理です。 排泄さえも看護婦さんの介助が必要です。 これは私が生きていく上では最低どうしても必要なことです。 生きることだけでお金を取られてしまう。しかも、私はご飯も食べなければいけません。 光熱費もいります。ローンも払わなければならないのです。 これからどうやって生きていけというのか……。 --勝ちの人生-- もし、あの時死んでいたら、痛くもカユクもなく、苦しむこともなく、 あの世に行っていたと思います。 そういう事から考えると、案外一般で思われているほど“死”は怖いものではないような気がします。 それに、自分の選んだ道で、自分の好きな野球で「死ねる」。 これ以上に最高の死に方はないと思います。 私の恩師・元PL学園硬式野球部監督の中村順司先生が 「野球選手がグランドの上で死ねたら本望や」とよく言われていました。 私は、グランドの上で、甲子園のラッキーボーイとして、 いつまでも“野球バカ”として語り継がれたのではないかと思います。 短かったですが、短くても中身の詰まったいい人生だったと……。 人には「生」と「死」しかありません。 私みたいに身体に大きな障害を残しても、年老いて身体が思うように動かなくなっても、 自分の住み慣れた家や街で、自分の生活スタイルを崩すことなく 生きていきたいと思うのは当然のことだと思います。 今は健康な人でも、「いつ、どこで、誰が、どうなるのか」は、誰にもわからないことです。 そして、人は必ず年老いていきます。その時に、「人間らしく生きる」為にも、 もっと一人ひとりが福祉にも目を向けて、 意識していかないと生きることが苦になると思うのです。 最後に、勝負には「勝ち」と「負け」の2つがあります。 私の“人生”という勝負には、負けるわけにはいきません。 途中でいくら負けがあったとしても最終的には絶対に勝たないといけない。 何故なら、今まで自分がしてきたことが無駄になってしまうような気がするから。 障害者になったことを後悔しないためにも頑張って生きていこうと思いますし、 勝ちにいきたいと思います。 |