--憧れのPL野球-- 私は小学校の1年生の時に、プロ野球の影響を受けて野球を始めました。 最初は“下手くそ”でしたので、すぐに飽きてしまい、好きなバッタを捕ったり、かくれんぼをして遊んでばかりいました。 そんな私にとても強い影響を与えたのがPL学園でした。 その当時、逆転のPL、奇跡のPLと呼ばれ、「こんな強い学校が大阪にあるんやったら、PLに行って甲子園に出たい」と子供ながらに思いました。 しかし、これはあくまでもテレビの中でのことであって、私には関係のないことだと思っていました。 そんな私が中学校の大会で優勝を重ねていくうちに、「PLに行きたい!」という思いが強くなるのですが、私が通っていた中学校からはどんなに上手いと言われた人でも、 だれ1人としてPLに行けたことがなく、やっぱり無理なんだという思いでいました。 しかし憧れは消えず、私は最初にPLの会員になりました。 そこからいろいろな情報を得て受験までこぎつけ、幸運にもPL学園に入学することができたのです。 その時は、嬉しい気持ちと、どんなところかという未知への不安でいっぱいでした。 高校の3年間で甲子園に出場をさせていただいたのが、高校3年の春と夏です。 この時は、1年後輩に桑田、清原という超高校級のスターがいましたので優勝候補の筆頭でした。 そして、忘れることができないのが、第66回大会、決勝戦の9回裏での同点ホームランを打てたことです。 私の実力であれば、PL学園に入れただけで喜ばなければいけないのに、 甲子園に出場でき、憧れの場所で、憧れたPL野球ができたことはもう何と言っていいかわからないほど最高の気分でした。 --不慮の事故−生きる苦しみ-- そんな最高の余韻が覚めない1年後に、野球の試合中に事故が起きました。 頸椎損傷というケガのことを知らなかった私は、「骨さえ元通りにくっつけばまた野球ができる」と思っていました。 が、しかし、これは現代医学を持ってしても治すことができない不治のケガだったのです。 これを聞かされた時は、「信じたくない。嘘やろ。嘘であってくれ!」と思ったのですが、現実に自分の身体を1センチ、1ミリも動かすことはできませんでした。 だから、生きることはすなわち苦しむこと。それだけでなく、家族にも迷惑をかけるので、「死のう」と思いました。 ですが、自分1人の力では死ぬことさえもできずに、ただ、1人で泣く毎日を送っていました。人前では極力涙を見せずに、夜に1人で泣くようにしていました。 そんな泣き疲れたある日、「このまま一生を泣いて過ごすのか?」というようなことを考えるようになりました。 その時に「このままでは今までやってきたすべてが無駄になる」と思えて、少なくとも自分なりに頑張って出場することができた甲子園は、絶対に無駄にはしたくないと思いました。 だから、「今、自分にできる精いっぱいのことをやろう」と思いました。 それにプラスして、いろいろな人からの応援がありました。 --桑田、清原君の励まし-- 特に有名なところでは、桑田君&清原君がいます。 高校時代、私の身の回りの世話をよくしてくれていた、現在、読売巨人軍の桑田君は、今でも逢いに来てくれたり「哲さんの面倒はみますから心配せんといてください」と言って、いろいろと考えて良くしてくれています。 野球ができなくなって、野球に対する思いを打ち消してくれたのは、現在、読売巨人軍の清原君のこんな言葉でした。 「哲さんの分までプロの世界で頑張りますので見といてください」と言ってくれたことによって、「これからは自分が野球をしなくても、一緒にやった仲間が俺の分までやってくれるんだ」と思えるようになりました。 こうしたプロ野球を代表する2人に応援してもらい、支えられている私は幸せ者です。 私を勇気づけてくれるのは、2人だけではありません。『哲和会』もあります。 これは、PL時代の同級生が主体となって、硬式野球部の3つ後輩までで構成されている会です。 これこそ“結び”の結晶です。年に1度チャリティーゴルフを開いてくれます。 この時は、遠方からもかけつけてくれたり、みんなが忙しい仕事を調整して集まってくれます。 私には本当にもったいない会です。 病院で、同じケガをして知り合った人がたくさんいる中で、私みたいに応援してくれる会を持っているのは私だけです。 だからといって、ケガをするまでの間、私が特別なことをしてきたのかというとそうではありません。 だけど、私だけが応援してくれる会を持っているのです。 これは本当に嬉しいことで、私の唯一の自慢です。 今、社会資源(ホームヘルパー、ガイドヘルパー、訪問看護、入浴サービス)のサービスだけを受けて1人で生活をしています。 でも、両手両足の動かない状態で、1日4時間しかホームヘルパーに来てもらえなくてとても不自由ですが、「新しい障害者の選択肢になるように!」と頑張ることができるのも『哲和会』のみんなが応援してくれるからこそです。 私に対してそこまでする価値があるのかとも思いますが、みんなが開いてくれるのです。 それだけに、私も頑張ろうと思います。 この両手、両足が動かない状態は、本当に辛いです。 だけど、自分が選んだ道で、好きな野球でこういうケガをして良かったと思います。 もしこれが交通事故とか何かの災害に巻き込まれてこのような状態になっていたとしたら、 それこそすべてにおいて後悔していたと思います。 だからと言って、「これで良かった」とは冗談でも言えません。 やっぱり、自分でできていたことができなくなるというのは辛すぎますから……。 しかし、上を見ても下を見てもキリがないので、 今の自分にできることで表現していかなければ仕方がないと思っています。 「野球が嫌い!」「野球が怖い!」と言っていたら罰が当たる よく人から、野球でケガをしたので「野球は嫌いになったか? 野球は怖いか?」と聞かれます。 でも、今の私を支えてくれているのは、すべて野球を通じての人たちです。 確かに、野球で大切な身体の自由を失ったのですが、その野球が今の私を救ってくれているという不思議な現象が起きているのです。 これで「野球は嫌い!」とか「野球は怖い!」となどと言っていたらそれこそ罰が当たると思います。 私の楽しみでもあるのが講演です。これも、やっぱり野球なのです。 なぜなら、「もし、野球をしていなかったとしたら講演の依頼は来るのか?」、おそらく来ないと思います。 やっぱり、甲子園で走り回っていた者が一瞬のうちに動けなくなってしまったというギャップが、あまりにも大きく、 そうした体験をした人が少ないので、私のところに講演依頼が来るのだろうと思うのです。 身体のマヒの関係で1時間以上話をするのは楽なことではありませんが、 『哲和会』のみんなが応援してくれているのに寝ているわけにはいきません。 本当に私にはもったいない会だと思います。 それだけに『哲和会』を大切にしていきたいと思います。 --応援してくれる人がある限り-- もう私が野球をプレーすることはできません。 今は人生を野球に置き換えて戦っています。 遅れている日本の福祉、障害者を人間扱いしてくれない人に理解してもらえるよう、 そしてライバルの桑田君&清原君に追いつけるように頑張っていきたいと思っています。 最後には、今度こそ同点ホームランではなくて、人生に逆転のホームランを打ちたいと思います。 その時初めて「障害に勝った!」と言えるんじゃないかと思っています。 1人でも応援してくれる人がいる限り、寝てたらアカンと思えますし、生きていけます。 野球に感謝、応援してくれる人に感謝の気持ちでいっぱいです。 『哲和会』がある限り、生きていけます。そして、高校時代のみんなの忘れ物 “全国制覇”を、もう野球はできませんので、今度は講演で成し遂げたいと思っています。 何年かかるのかわかりませんが、『哲和会』のみんなが応援してくれる限り、 体力が続く限り、諦めずに挑戦し続けたいと思っています。 こんな私ですが、これからもよろしくお願い申しあげます。 |