2010年3月

 父
 3月28日。02時24分に2回目の脳梗塞の為、他界いたしました。
 1回目の脳梗塞から17年。前立腺ガンになって8年。本当に頑張って生きて下さったと思います。その中でも、左半身がマヒになってしまった事は不自由で大変だったと思います。同じ身体に障害がある者として絶対に言える事は、人間の身体に障害はいらない!
 父の思い出というと、本当に良く遊んでもらいました。プールに行けば潜水艦といって背中に乗せてもらって水の中に潜ってもらったり、キャンプにカブトムシ捕り、スイカ割り、魚釣り・・・。家の中では将棋、正月は花札。大きくなったら麻雀も教えてもらいました。とにかく、遊びに関しては何でも良く知ってて器用でした。
 将棋は父に勝った事がありません。私が勝ったのは父が70歳を超えてからです。初めて勝った時の父のなんとも言えない表情を覚えています。だから、それからは父と将棋をしなくなってしまいました。なんか私の中で超えてはいけないものを超えてしまったような気がしたからです。
 父とは、小学校の6年間、監督と選手として守口セネタースで一緒に野球をしたのは最高の思い出です。
 最初は本当に弱かったチーム。負けて、負けてばっかりでした。そんなチームが「優勝して当たり前」みたいになったのは、なんといっても父が何百球と投げて子供達に打たせ、そして、スパルタで教え込んでいったからだと思います。だから、父の印象はと聞かれると『怖い!』と私は答えます。良く父が言ったのは「他の子をどつくには、まず自分の子をどつかないと他の子はどつけない。」そういう事ですから私が誰よりも被害を受けたのです。だけど、そのおかげで甲子園まで出場させてもらえる選手までに育ててもらえた事は本当に感謝しています。しかし、怒られてる時はいつも最悪でした。(当たり前か・・・。)
 私は小学校の6年の時で最高「125キロ」でていました。一応、「あいつのボールは速い!」と言われていましたが、年に1度「親子大会」があるんですが、この時に必ず父にホームランを打たれたのです。父の野球経験なんかありません。そんな父に打たれるのですから頭が上がるはずがありません。
 せっかく五体満足に産んでくれた身体に、私の不注意で身体に障害を持つ事になってしまった事は最大の親不孝だと思っています。そして、自分だけが野球を失うだけであればまだ良かったのですが、私がケガをしたという事で周りの人から「息子が野球でケガをして死にかけてるというのに親はまだ子供に野球を教えてる・・・。」という話しが父の耳にも入り、父は守口セネタースの監督を辞め、野球から身を引きました。私のケガが父の楽しみまで奪ってしまう事になるとは思ってもいませんでした。本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。
 今から考えると父は私にこういう身体でも野球に携わっていて欲しかったのではないかと思います。何故なら、私が「セネタースに野球を教えに行ってるねん」と伝えた時にとても嬉しそうな顔で喜んでいたからです。それからは私と逢うたびに「セネタースどうや? あんばい教えたってるか?」といつも聞かれていました。
 私が守口セネタースにいこうと思ったのは、父が作ったチーム、私の出身チームという事もありますが、それだけではありません。ある人から「教えに来たって!」と誘われた事、私達の全盛期に10年間で7回決勝に進み、4回の優勝と3回の準優勝という戦績を知った事、そして、ある方は守口セネタースの出身ではないのですが、息子さんを守口セネタースに入れていた事を知ったからです。普通は、自分の出身チームに子供を入れるのが当たり前です。何故なら、要領がわかってるし、愛着があるからです。それをされずに、守口セネタースに息子さんを入れて下さったという事は、それだけ『守口セネタース』を高く評価して下さってるのですから、私も行ってみようかなと思うようになりました。
 今、考えてみると父も守口セネタースを去ったとはいえ、気になっていたのではないでしょうか? 私がセネタースに通うようになってから1年も経たずに父は亡くなってしまいました。きっと私が行きだしたという事で安心したんだと思います。だから、守口セネタースに行く事が父への恩返しであり、供養だと思っています。これからも大切にしていきます。
 母が4年前に乳ガンになり、父の介護ができなくなり、それからは老健施設を転々としながら特別養護老人ホームのベットを空くのを待っていました。やっと特別養護老人ホームに入所できるようになって半年も経たずに亡くなってしまいました。その時にいつも「家に帰りたい!」と言っていたのですが、父の介護を誰もできるような状況ではありませんでした。もし、父の願いを叶える事ができたとしたら、それは私しかいてません。それだけにその願いを叶えてあげられなかったのが心残りです。
 今年の冬に私が肺炎になり、死にかけていた状態から回復するにつれて父の状態が悪くなっていきました。私が退院して父の所に行った時には既に意識はなく、私の事もわからず、なんの話もできずに亡くなってしまいました。だから、私の身代わりになってくれたんだと思います。
悲しいのは当たり前ですが、守口セネタースに行って野球をやるといつもそばにいてくれるように思えます。それに、父が教えてくれた野球。父が作った守口セネタース。そして、父が作ってくれた野球という財産をこれからも大切にして、生きていきたいと思います。
ありがとうお父ちゃん。安らかにお眠り下さい。
清水 哲