『二粒の涙』



手術が終わった時
二粒の涙がこぼれた
その涙の意味は
なぜ、俺だけ痛い目ばかり
あわなければならないのかという
悔しさと情けなさから
もう一粒は
無事に終わった
生きててよかった

生きる喜びもまだ知らない私が
しかも「この体の状態が嫌い」と言っている私が
なぜ「生きていてよかった」と思うのか

人間とは、生きていなければ意味のない
動物だとそれだけわかった


「エッセイ」

男が人前で泣くのは、余りいい事とは思わない。
しかし、あふれ出てくる涙は自分自身でもどうする事もできない。
このケガをしてから12年。
いい事も、嫌な事も色々な事がありすぎて・・。
それでも、この身体の状態は好きになれない。
だけど、手術が終わって、麻酔から覚めた瞬間、
正直に「生きていて良かった」と思いました。
これは、どういう事なんでしょうか?
生きていれば、美味しい物も食べられるし、新しい発見に感動したり、恋もできる。
でも、生きているがゆえに、嫌な事や苦しい事にも出くわしてしまう・・。
そんな中でも、“いつか自分にプラスになる”つらさは、比較的耐えやすいと思います。
だけど、私の場合は、身体が不自由だけに健康な人と“耐える”ところが、
度合いが違うのです。
特にお腹が空いた時などは、食べる物が目の前にあったとしても、
自分1人では取る事さえ出来ないのです。
こんな状態で、「生きていたい」とはなかなか言いにくいです。
4年前から、全国各地で講演をさせていただけるようになり、
講演終了後には、お世辞でも「いいお話を有り難うございました。」
と言っていただけて、嬉しいです。
そんな時、「この世に、障害者・清水哲も必要なのかな」と思えるようになりました。
死んでしまえば苦しみからも解放されますが、
そこで“自分という存在”も、この宇宙から無くなってしまうのです。
どんな身体の状態であろうが、生きていれば存在があり、その自分という存在が、
“人の役に立っている”と感じられる時なんかは最高です。
きっと、看護婦さんもそうではないでしょうか? 
だから、いいとは言えない立場や労働条件でも、
ナースとして働く事が出来るのではないのでしょうか?
このエッセイを読者の方が目にされる時は、
私は、おそらく、9回目の手術をした後だと思います。
そして、麻酔から覚めた時「生きていて良かった」と涙を二粒だけこぼす事でしょう・・・。